慰めの言葉にならない「神のとき」
伝道者3:1-3「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。」
昨日、ある牧師の方の講解説教でヨハネ11章のラザロの復活について書かれていた。そこには、ラザロが死ぬのを待っていたかのように、イエスは2日間待ち続ける。聖書の言葉は非常に奇妙な言葉が載っている。
そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。(ヨハネ11:3-7)
この牧師は、イエスがとどまられた理由に2つのことを挙げている。
1. 死で終わるものではなく、神の栄光のため。
2. 神の時を待っているため。
でも、文字通りの意味、接続詞を見ると、実際には違う。
イエスが愛しておられたので・・・・。
と繋げるほうが自然である。この牧師は下線を引いた節を抜いて解釈しているように見える。
ヨエル自身、奇妙に思われたのが、このイエスがとどまられた理由の2点だった。この2点はあることを前提にしているからだ。
現実に起こることが最も、正しい。それが神の時だ。






最近のコメント