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2012年5月27日 (日)

慰めの言葉にならない「神のとき」

伝道者3:1-3「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。」

昨日、ある牧師の方の講解説教でヨハネ11章のラザロの復活について書かれていた。そこには、ラザロが死ぬのを待っていたかのように、イエスは2日間待ち続ける。聖書の言葉は非常に奇妙な言葉が載っている。

そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。その後、イエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。(ヨハネ11:3-7)

この牧師は、イエスがとどまられた理由に2つのことを挙げている。

1. 死で終わるものではなく、神の栄光のため。

2. 神の時を待っているため。

でも、文字通りの意味、接続詞を見ると、実際には違う。

イエスが愛しておられたので・・・・。

と繋げるほうが自然である。この牧師は下線を引いた節を抜いて解釈しているように見える。

ヨエル自身、奇妙に思われたのが、このイエスがとどまられた理由の2点だった。この2点はあることを前提にしているからだ。

現実に起こることが最も、正しい。それが神の時だ。

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2012年5月25日 (金)

虚礼?としてのニュースレター

ガラテヤ6:9-10「善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」

社会人になってから、最初に行った教会は、リベラルと言われていて福音主義者には評判がよくない教会だった。ヨエルが最初に赴任したところでは、礼拝に行くのも、選択肢は指折るほどしか無い。少し、都会に出て礼拝に行けば、それなりの教会は見つかるだろうとは思う。でも、呼び出しがあり、おまけに、土曜日出勤をしていたら、日曜日の貴重な時間を1時間も2時間も車に乗って教会に行くのは、身体が持たないと思った。遠くから来る人は確かにいることはいる。馴染みがある・ないはあると思う。でも、遣わされたところで、その地元の教会に出席し、奉仕するのが、本来の地方教会の役割だと思っている。自分の合う合わないはあるのは、考慮しても、近いところを選ぶべきだとは思う。そうでないと、行った先で、伝道をしても、最終的にフォローする受け皿がなくなってしまうからだ。まして、サラリーマンは、鉢植えの植木のように、異動がつきもの。誰がフォローするのかと思う。

結果として、ヨエルが行った教会での経験は、社会人として過ごすためには非常に大きな柱になっている。今は違うが、当時、その教会の牧師は、元サラリーマンで銀行員をやっていた。クリスチャンとして、社会で生きるとはどういうことかを知っている方だったがゆえに、ヨエルの戸惑いについても、よく相談に乗ってくれたし、非常に具体的なアドバイスを頂いた。数年後、ヨエルは学生時代の母教会に一旦籍を置くことになるが、そこでは、そう言う社会人としての悩みの相談はできなかった。というより、しなかったといった方が良い。言われる答えは分かっているのだ。

信仰を持ってやれば、大丈夫だよ。

これは学生時代から言われていたことだ。学生時代、ヨエルが日曜礼拝以外に、他の教会で理にかなった説教をしてくれる礼拝に行っていなかったら、ヨエル自身、学生時代に、クリスチャンであることをやめていただろう。そして、残念なことに、今もなお、ヨエルの教会は、悩んでくる信仰の後輩たちに同じ言葉をかけている。

そこの学生伝道をやっているスタッフの方から、ニュースレターが届く。キリスト教団体のニュースレターは文章で、郵送されてくる場合が多いが、その中に入っているものは、

郵便振替用紙

である。さぞかし、「献金してくれ!」と言っているかのようだ。もちろん、困っている団体には献金はするが、大半は、献金と神への奉仕が共通化されていて、献金というか、「集金依頼」と言う感じがする。言い方が悪いが、職場の宴会の幹事の方が、よほど、印象が良い。

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2012年5月23日 (水)

神の領域と人の努力の境界線

マタイ10:14「もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。」

イエスが12弟子を宣教旅行に最初に出すとき、イエスは弟子たちに注意を与える。

ユダヤ人の家に行きなさい。

奇跡やしるしを行いなさい。

報酬はとってはいけません、

そして、興味深いのが、街に入ってまず泊まる家を探す時に、イエスが言った言葉である。その街が誰も受け入れないのであれば、冒頭の箇所のようにしなさいと言われた後、こう言われる。

まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。(マタイ10:15)

多分、弟子たちはユダヤ人であったし、当時、時の人だったイエスという新進気鋭のラビの弟子ということで、歓迎はされていただろう。だから、彼らは困ることなく伝道旅行に行けたのだと想像する。もちろん、いつの時代でも、へそ曲がりな人はいただろうから、当然拒否されたこともあったのは容易に想像できる。そのことで、こう言われたのだろうと思う。

このあと、イエスは、迫害の予告をする。弟子たちを「狼の中に羊を送り出すようなもの」と言う言葉を持って称したのは、イエスが派遣する12弟子のことを本気で心配していた証しだろう。それであっても、ヨエル自身、この冒頭の箇所については不思議でならなかった。

そんなに簡単に判断して良いのだろうか?例えば、1万人の街があって、全部の家をノックして回るわけはないだろう。(どこかの異端ではあるまいし)

そう考えると、全部回らないのに、勝手に判断して、外に出てしまうのは、どうなのだろうか?

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2012年5月20日 (日)

クリスチャンって救われているの?救われていないの?ー今も、混乱し、誤解している君にー

第一コリント13:12「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔を顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」

昨日、紹介したヨエルが心配している予言好きの人のTweetをTwilogというサービスで調べてみた。(便利だと思う。このサービスを使うと、何を話をしているのかがよく分かる。)そうしたら、あることに気がついた。一つの聖書の言葉に混乱しているという点だ。

完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。(第一コリント13:10)

この「完全なもの」に対しての誤解があるということだ。この方は、これを

聖書が完成し、

聖霊が降誕されたこと。

で終りだと思っている。これがそもそもの間違いの一つだと思っている。さらに、その方の場合は、一歩進んで、

救いが完成されている。

と思い込んでいる。サタンの仕業と思う理由は、

自分だけが混じりけのない聖霊を持っている。だから、自分の言っていることは正しい。

と主張している点にある。「混じりけのない」という言葉の意味が気にかかるが、そのことは、ここでは触れない。

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2012年5月19日 (土)

偽りの予言、真理の預言

エレミヤ27:18「もし彼らが預言者であり、もし彼らに主の言葉があるのなら、彼らは、主の宮や、ユダの王の家や、エルサレムに残されている器がバビロンに持っていかれないよう、万軍の主にとりなしの祈りをするはずだ。」

最近、Twitterでやり取りしている人のことを書こうと思う。その方は、自らを予言をするものと自己紹介されている。クリスチャンで、正しいことを述べているようだ。エピソードが載せられている。

その方が、ある時、ある教会の牧師(博士号を持っておられたようだ)が、聖書の言葉と矛盾していることを告げ、そして、その牧師がやめられたそうだ。そして、その方が、「偽教師を取り除く」とのお言葉を頂いた5日目に、その牧師の方がICU(集中治療室)に入られたそうだ。

多分、聞けば聞くだけ、その言葉が出てくるだろう。

事の真相は別にして、ヨエルは、この方が非常に危険な場所にいるのではないかと思い、心配している。

新約聖書には、預言の目的は明確に書かれている。

預言を話す者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。(第一コリント14:3)

それなのに、この方は裁きの言葉をかけている。

旧約聖書の預言者サムエルは、王サウルに対して、有名な言葉を告げる。

まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主の言葉を退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(第一サムエル15:23)

サムエルは、こういって、次の王ダビデのもとに足を運ぶことになる。だからといって、サムエルはサウルが神から裁きを受けることを喜んでいたのではない。むしろ、悲しんでいたと聖書は説く。

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«神を罵る預言者

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