ダビデに免じて
第一列王記15:3-5「彼は父がかつて犯したすべての罪を行い、彼の心は父ダビデのようには、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。 しかし、ダビデに免じて、彼の神、主は、エルサレムにおいて彼に一つのともしびを与え、彼の跡を継ぐ子を起こし、エルサレムを堅く立てられた。それはダビデが主の目にかなうことを行い、ヘテ人ウリヤのことのほかは、一生の間、主が命じられたすべてのことにそむかなかったからである。」
「あなたは罪人ですか?」と質問されて、ヨエルは、「はい」と答えることができる。それは、自分の弱さ、罪深さを知っているからだ。事実、ヨエルは信仰を持って、聖書を読む度に、以前よりも、感受性というのか、適切な言葉が思い浮かばないが、すぐに自分で自分を責めるようになった。良心の呵責というものが強くなったと思う。論理的に、道義的に正しくないことをすると、あとで、結構落ち込む。その時、よく思うのが、
自分は罪人なんだ。
という実感である。不思議なことだが、クリスチャンになる前より、その意識はずっと強くなったように思う。
聖書はクリスチャンになると、内側に聖霊なる神が住まわれることを約束として挙げている。そして、聖霊の役割は
罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。(ヨハネ16:8)
とある。異言を話す、預言を語る、聖霊の賜物といったものが、聖霊と聞くと注目されがちであるが、本来の聖霊のMISSIONは、現象的なものではなく、内側からの変化だと聖書は言っている。聖霊は目にみえないし、実感がわかない上、わかりにくい。その上、教会では
御霊に満たされて歩みなさい。
聖霊との関係がクリスチャンライフの鍵です。
と言われるので、大切な物だとわかるものの、それを自覚するのが、困難だと思う。しかし、良心の呵責という点という身近なことがその証拠だと思うと安心する。







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