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2009年5月10日 (日)

ヨブ1章,42:7-17 「苦しみを見つめて」

おはようございます。

この教会では、毎週「証し」の時間がありますが、神様が人と出会われるとき、みんな違う方法で出会われるのだなと思います。今朝は、私がメッセージをする事になったのですが、拙い内容かもしれませんが、しばらくの間、我慢して聴いてください。Wさん、我慢して通訳をお願いします。以前、証しの時に話をしたと思いますが、私は聖書通読をやっています。聖書を読むたびに、残念に感じることがあります。

  1. 話の内容を知っているので、スリルを感じにくくなっている。犯人が分かっている推理小説を読むほど、つまらないことは無いでしょう?
  2. 登場人物の言動を、読む私たちが裁いてしまいやすいということです。私たちは後の内容を知っていますが、登場人物は、後に起こることを知りません。聖書は時間の経過をさりげなく書いているので、私たちは、聖書が言っていない時間の中で登場人物がどのような気持ちで過ごしたのかを見落としてしまいやすいということです。

この2点に注意して、今日は、聖書を見ていきたいと思います。一言お祈りします。

今日はヨブ記を取り上げます。

ヨブという人は、大体ノアと同じくらいの年代の人です。聖書に出てくる書物の中では、ヨブ記は最古の書物のひとつです。私が聖書を最初に通読しようとしたときに、最初に躓いたところがこのヨブ記です。なぜかというと、話の内容が掴めないからで、その上、長く、退屈だからです。ヨブ記は次のように続きます。

1章から2章までは、神様とサタンが、ヨブについて話をします。

ヨブのことを神様が自慢しているかのように書かれています。それに対して、サタンが神様を挑発して、ヨブに次から次へと災難が降りかかるのです。

3章から31章まで、ヨブと3人の友人の議論が出てきます。

ヨブと3人の友人の議論が始まります。「正しい・信仰的なヨブが何故、このような苦しみを受けるのか?」というテーマです。ヨブの友人たちは、「ヨブが何か罪を犯したから、ヨブがこのような苦しみに会うのだ。そうでなければ、何故このような苦しみに会うのか?」とヨブを責めます。しかし、ヨブはそれに反抗します。ヨブは肉体的な苦しみではなく、神様が何故、沈黙をされているのかが分からず、神様に向けて、嘆きます。長い議論の末、ヨブの正しい生活を知っているヨブの友人たちは、ヨブを正しく認め、黙ってしまいます。

32章から37章まで、エリフが出てきます。

ここで突然、若いエリフが出てきます。エリフの言いたいことは、こうです。「神は人を訓練される方である。人は神を理解することができないのだから、神を恐れなさい。あなたは神様に対して、何もできないのだ。」と言ってヨブを悩ませます。

38章から42章6節まで、とうとう、神様が出てきます。

神様の主張は今までの議論とは異なります。まるで、芸術家が自分のアトリエを案内し、自分の作品を自慢するかのように、ヨブに質問責めにします。何とこれを聞いてヨブは悔い改めてしまいます。

42章7節から、最初に出てきた3人に対する神様の怒りが述べられ、ヨブが彼らのために祈るのです。ちなみに、32章に出てきたエリフについては、どうでしょうか?私はエリフの主張は間違えていると思います。神様が何よりも、ヨブのことを理解し、ヨブのことを正しいと首尾一貫して伝えているからです。

そして、エピローグとして、ヨブの祝福が書かれています。

長い話が続くので忘れてしまったのかもしれませんが、最初のサタンの話はどうなったの?と思わないでしょうか?多くの人は、ヨブ記のことを「正しい人が何故苦しまなければならないのか?」をテーマにしていると言います。そのような視点で聖書を読むと、2点、疑問が浮かびます。

  1. 神様は、その疑問に答えていない。ヨブも、答えを得ていません。でも、ヨブは納得し、疑いは全くきえています。
  2. 最後の終わり方がイライラさせます。死んでしまった自分の子供の代わりに、新しい子供を与えられて、何が幸せなのでしょうか?

私も考えてみました。ヨブ記のテーマは「苦しみ」ではなく、「信仰」ではないかと。そのようにして読むと、ヨブ記の構成を探偵小説の演劇に例えることができます。

ヨブ記1章と2章をこう例えましょう。

幕が開く前に、原作者あるいは監督が出てきます。そして、背景を全部説明します。

  • 神様がヨブの事をどれだけ誇りに思っているのか。
  • ヨブを試練に陥れたのは、神様ではなく、悪魔であること。
  • ヨブが苦しみに会うのは、ヨブの罪ではなく、悪魔の挑戦(人は本当に神を愛するのか?)に対する神様の重要な代表選手あるいは証人として選ばれたからだ。

ただし、ヨブがどのように応答するかは、話をしません。そして、幕が開きます。舞台の真ん中では、ヨブが土器の欠片を持って、ボリボリ掻いている哀れな姿が現れるのです。見ている観客の唯一の関心事は、ヨブを苦しみに合わせている犯人が誰かではなく、ヨブはどのように応答するかという一点に絞られます。そうすると、ヨブ記の後の流れが、よくわかります。

ヨブ記のテーマは「信仰」です。「苦しみ」や「苦難」は材料として与えられているのに過ぎません。

聖書をよく読んでみると、私たちが持っている「何故、神は善良な人に苦しみを与えるのか?」という疑問に、知的な答えを出していません。ヨブ記もそうですし、イエス様も答えていません。よく苦しみにあっている人に、「神様はね、こうことを教えようとされているのだよ」という人がいますが、私たちにとっては、それは、神様が答えようとしないことを言うという越権行為かもしれないのです。なぜなら、私たちの応答が神様にとって、どのくらい重要なものか私たちは理解していないからです。ヨブ記についていえるのは、ヨブの応答が神様にとっては非常に重要だったと言うことです。

一ヶ月くらい前でしょうか?Mさんが、このような紙をだして、神様の説明をされました。確かに、全て正しいのですが、試練に会っている人には、何の助けにもなりません。なぜならば、試練は個人的なものであり、感情的な反応が多い上、答えられた祈りではなく、答えられなかった祈りのほうに集中しやすいからです。それでは、試練の只中にあって、何が私たちの助けになるのでしょうか?私にとっては、試練や困難に直面した時に、イエス様の存在が大きな助けになっています。

冷静な目で見てみると、福音書に書かれているイエス様の姿は、「不公平」という世界を生きられた姿でもありました。そう、私たちと同じように、

イエス様も、人から裏切られました。

イエス様も、孤独を感じられ、誰か傍にいてほしいと思われました。

イエス様も、答えられない祈りがありました。

イエス様も、泣かれました。

イエス様も、怒られました。

そして、イエス様は、何も罪を犯されなかったのに、私たちの身代わりとして、十字架に掛けられたのです。

しかし、

イエス様は、私たちを愛され、赦してくださいました。

イエス様は、孤独な人の傍にいてくださいました。

イエス様は、病気の人を癒してくださいました。

イエス様は、泣いている人に「もう、泣かなくても良い」と言ってくださいました。

イエス様は、一緒に笑い、喜んでくださいました。

そして、イエス様は、死の力を打ち破り、よみがえられたのです。

先ほど、私はヨブ記の終わり方にイライラすると言いました。災害で失った子供の代わりに、子供が与えられたからといって、喜ぶ親がいるのでしょうか?本当にそれが、祝福なのでしょうか?と言ったと思います。これについて、私は、将来、私たちが受け取る神様の祝福、約束と考えられないでしょうか。つまり、私たちがこの世で祈っても得られなかったもの、この世で失ったものを受け取ることができると言う約束を示しています。神様は、この世界が不公平だということを否定しませんでした。

素晴らしい信仰を持っている人が不治の病になったり、体が不自由な赤ん坊が生まれたり、経済的貧しさや崩壊した家庭、突然知らない国に拉致されたり・・・身近な例では、お願いしていないのに顔に出てくるシミやしわ。お願いしているのに、抜けていく髪の毛も含めて、「何故、このようなことが起こるの?」と思われるような事件が毎日のように身近で起こります。よく考えてみると、この世で例え病気の人が癒されても、何百年も生きられるわけではありません。同じように死んでいきます。この地上はどこかが壊れていると思いませんか?

聖書の最後に黙示録がありますが、黙示録を見ると、このような言葉が書かれています。

黙示録21:3-5「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐいとってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』すると、御座に着いておられる方が言われた。『見よ。わたしは、すべてを新しくする。』また言われた。『書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。』」

今の世界は苦しみや悲しみでいっぱいですが、神様も私たちと同じように思っておられるので、神様は苦しみや悲しみが無い新しい天と新しい地を創造すると宣言しています。そこには、老いることも死ぬこともありません。4月12日はイースタでしたが、イエス様の復活という出来事を、不公平に対して神様がどのように思われているかと言うしるしとしてみることができると思いませんか?主の復活を思いつつ、この春の日を過ごせたら、何と素晴らしいでしょうか。もし、今、苦しみや困難にあわれている方がいるのであれば、ほんの少しだけ、前を見て一歩踏み出すきっかけになってほしいと思います。お祈りしましょう。

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