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2009年5月30日 (土)

教会に行かないクリスチャンたち

ヨエル自身、ブログを書いているが、他のブログ、特にクリスチャンのブログは定期的に読んでいる。最近はコメントを書くこともしばしばだ。あるブログの常連は、教会に行かないクリスチャンであったりする。

ヨエル自身感じていることだが、教会との壁をよく考える。壁と言っても、クリスチャンでない人が感じる壁ではない。世の中で仕事をしているクリスチャンが、教会に来ると感じる違和感である。福音書の内容が語られてはいる、しかし、そこには虚しさを感じる。一種のサブカルチャーにいるような気がするのだ。牧師は聞こえの良い説教をし、それに会衆は賛同する。それで、「ああ、よかった。ハレルヤ」と言って終わるのだ。そこには明らかな自己矛盾が生じている。イエスを礼拝し賛美しているが、イエスが言われたことを全くやろうとは思わない人が集っているように感じてならない。

ウィークディはサラリーマンとして、日曜日はクリスチャンとしての仮面をつける、そんな礼拝に嫌気が差す。教会は元気な人が行くところなのだろうか?それとも、元気でない人が行くところだろうか?イエスは言われなかっただろうか?「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)それなのに、教会できく証しはイエスが皮肉で言われたパリサイ人の祈り(ルカ18:10-12)のようだ。

もちろんすべての教会とは言わない。そうではない教会をいくつも知っている。

カテゴリーの「『隔ての壁』をみつめて」は次の聖書の言葉からとった。

「キリストこそわたしたちの平和であり、ふたつのものを一つにし、隔ての壁を打ち壊し、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、ふたつのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者をひとつのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。」(エペソ2:14-16)

私達の主であるイエスは、パリサイ人から「大酒のみの、大飯ぐらい」と罵られること(マタイ11:19)を甘んじて受けられた方だ。キリストの体と称されている教会が、パリサイ人と同じように罵ることがあっても、罵られることは僅かではないだろうか?

どこかが違う、どこかが間違えている、そう思うのはヨエルだけなのだろうか?福音書を読むと、ある記事でヨエルはいつも立ち止まる。

「その日には、大勢の者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇跡をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなすものども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7:22-23)

イエスから「あなたたちを全然知らない」と言われるのでは?と危機感を感じている。そう言われないように、私達は何を考え、何を優先し、隔ての壁を壊していけばよいのだろうか?

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