ディボーションから:イザヤ8:17
イザヤ8:17「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。私はこの方に、望みをかける。」
久しぶりに、ディボーションの分かち合いをすることにした。
ヨエルは、自分で昨日書いたせつさんへのコメントと、そのコメントに対する返信を何度も読んで、ずっと考えていた。
折りしも、今から20年前の今日、中国で天安門事件が起こったニュースをやっていた。そのニュースを聞きながら、この御言葉を何度も反芻をしている。
隣りの国中国は今も信教の自由は認められていない。爆発的にクリスチャンが増えているが、今も地下教会の指導者たちは、「邪教」とされ、迫害の対象となっている。(もちろん、これには異論があることは承知している。三自愛教会という政府公認の教会があるからだ。でも、そこでは、キリストがいわれたことをする自由はない。これが信教の自由と言うのだろうか?)地下教会の迫害について知りたい人は、ブラザー・ユン著「天国の人―中国河南省・家の教会の「奇跡と感動の物語」 」をお勧めする。中国では信教の自由がないことを理解できるだろう。彼らは共産国家の中で迫害されながらも、祈り、福音を伝えてきた。
日本では、「神に祈りが答えられない」と言って、神に文句を言い、ある場合は、信仰を捨てる人がいる。少なくても、「祈りに答えられない」ことで神への失望を経験した人もいるはずだ。「教会に行かない」と宣言した「ノンクリスチャンの苦悩」の筆者も、期待していた神とは異なる姿を見て、行く気にならなくなったのかもしれない。少なくても、「ノンクリスチャンの苦悩」の筆者は、冒頭の言葉を知らなかったはずだ。
一方で祈りが答えられないと言って躓き、もう一方では祈りが答えられなくても更に信仰を持って祈りに励む姿。同じクリスチャンなのにどうしてこんなに差が出るのだろうか?と思ったのだ。どちらが正しいかは答えない。答える立場にはないと言うのが正解だ。
ヨエルは中国のクリスチャンたちのようになりたいと思う。でも、恥ずかしながら、日本のクリスチャンと同じで、どうして祈りに答えられないのか?どうして神は姿を現して下さらなかったのか?という質問に悩む人間の一人でもある。このことを考え始めると、ヨブの妻の辛辣ながら的を得ている言葉を思い出す。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって死になさい。」(ヨブ2:9)この言葉は、信仰を失った先輩や友人、それに信仰を持つことなく教会から去っていった人を代弁しているかのようだ。彼らの質問の聞きたい趣旨はこうだ。
「神が何もしてくださらないのに、なぜ、あなたは神を信じるのですか?」
この質問に対してまともに取り合うクリスチャンは少ないと思う。でも、彼らが一番聞きたい質問はこのはずだ。中国のクリスチャンに対しても、日本の信仰を持ち続けているクリスチャンに対しても・・・・である。そう、聖書がいみじくも、「御顔を隠しておられる」と神ご自身が意図的に隠されたということを示しているように。神はご自身の意図を持って隠されたのであって、私たちがどうしたから隠れてしまったのではない。
正直に書こう。恥ずかしながら、時々、神にどれだけ望みをかけているのか?自分でも疑問に思う。問題が起こると、神よりも人を頼るし、人に話す。本来なら、神に祈ればいいのに・・・と思う。まるで、神が答えてくださらないと予め知っているかのように行動している自分に気がつき、呆れてしまう。
不信仰だという罵りは甘んじてお受けする。そういう方に対して、逆に聞いてみたいのだ。何かを信じるとき、人でも、宗教でも良いが、相手に何かの見返りを期待するのが普通のはずだ。相手が人であるなら、小さな約束(時間を守る、約束を守るなど)が守られないとその人に対して信用をなくすではないか?宗教でも同じだ。「家内安全・商売繁盛」を掲げている新興宗教は幾らでも存在する。何らかの見返りを求めているからではないだろうか?そういう姿のどこが悪いのだろうか?
「クリスチャンは『清貧』である」べきという人がいる。だから質素に生活し、献金をしている姿はすばらしいと思う。でもだ。その人は聖書を本当は全く理解していないのである。聖書では「貧しさは呪いのしるし」と書かれているし、神に愛された人物はひとりの例外を除いて大金持ちであったはずだ。そのひとりと言うのはイエスである。聖書はこういっている。「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富むものとなるためです。」(第二コリント8:9)そう、イエスの故に我々は富んだものになったと言っているのだ。
「主は御顔を隠される方でもある。」と言う事実。それは神様がご自分の意思で隠されるということであり、私たち人間はそれに対して何もすることはできないのだ。
では、もう一度、同じ質問をしよう。それは、ヨブの妻の質問でもある。
「神があなたに何もしてくださらなかったとしても、あなたは神を信じますか?信じるのであるなら、なぜですか?」
前回の文章では、ヨエルは「それでも、『イエス』と言う」と答えた。でも、毎日、この質問に『イエス』と答えられるか?自信はない。現実は目に見えて強いし説得力を持っている。その説得力のある現実からの証拠を突きつけられても、ヨエルは「神を信じる」と答えたいと思っている。すくなくても、今は・・・この「私はこの方に望みをかける」という言葉にそうだといえる気がする。
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